ふるさと みやぎへ。
東北新幹線の「上野⇔仙台」復旧を待って、行って来ました。
いろんなものを見て、聞いて、感じて、・・・・それはこちらに戻ってからも、
あらためて思い返すことがあります。
毎日何度も電話をして(電話料金がスゴイことになってました!)だいたいの状況は把握してはいましたが・・・(電話中に余震…なんてこともしょっちゅうでした)
やっぱり家族の顔が見たかったです。
復旧した後何度も停電でストップした新幹線に乗る前は、ペットボトル飲料を多めに買い、お弁当もがっつりしたものを選び、雑誌も3冊買いました。(長時間止まった時の備えに)
でも特にトラブルなく予定通り仙台に到着。
電車を乗り継いで妹たちの待つ駅へ。
大きなリュックを背負い、ジャンパーにスニーカーという私の格好を見て
「やる気満々だねぇ」と言われましたが、もちろんそれなりに働く気で行ったのですよ!
地震の数日後に買った車で(一台は水没)妹たちの家に着くまでの道すがら、さまざまな状況が見られました。
多少ダメージがうかがえるものの、あまり被害を感じないエリア。
なんだかあまりのへんてこりんな感じ(バランスの崩れた普通じゃない感じ)に「あらー・・・・」としか言葉がでないエリア。
そんな光景がほんの数十メートル差で現れては消えて、また現れて・・・
車の進行に伴い繰り広げられるけれど、それは土地の高低差とか波の到達の具合とか・・・
もう「ここはこんなんなのに、ここはこんなだわ・・・」っていう被害の差の理由は、
人知を超えた「神のみぞ知る」という感じでした。
第一、海から徒歩2、3分の妹の家が無事なのですから。(一階は床上浸水)
3週間近くの避難所暮らしの間、せっせと自宅の片づけに通っていた妹達。
家中を覆い尽くした泥を掻き出して冗談みたいに重い畳(←これがすごくやっかいらしい)を取り除き、床板をはがし乾燥させ、石灰を撒き。
床板と畳を張替え、壁紙も新しくしていました。
まるで普通にリフォームした家のよう。キレイに片付いていました。
周りの光景は「ザ・被災地」なのですが、妹の家を含め、ところどころに外側からはまったく被害を感じさせない家もあるのです。
(もちろん、もう住めないだろうな・・・というお宅も多数です)
「いったい私達は何をすれば・・・?」という感じでしたが、まだ泥を掻き出してない庭の片づけや、サッシ、網戸、縁側の掃除をしました。
上下作業衣に着替えて、やる気十分の夫、スコップで泥を掻き出す作業にすぐハァ、ハァ言ってました。
背中や腰にがっつりきたみたいです。
泥やゴミを捨てに行く場所は海辺の元、児童公園。
ありとあらゆるゴミ、ガレキで小山のようになっています。
夕暮れの美しい静かな海の光景を憶えています。
毎年夏祭りを開いていたところです。
小学生だった甥っ子が「ミッキーマウスのダンス」を踊ったことを思い出し、胸がいっぱいになりました。
ある程度終わった後、偶然、その日神奈川から車で手伝いに来てくれていた母方の親戚と一緒に、仙台南部にある実家に向かいました。
その時通った「仙台東部道路」が地震の後、注目を集めています。
この有料道路は、遮るもののない海抜約2メートルの仙台平野を、海から約3キロメートル離れた地点で南北に通っています。
これが3月11日、防波堤となって多くの人の命を救ったのです。
たくさんの人がこの高さ5~8メートルの道路によじ登って避難しました。
実際、この道路の東側(海側)は惨状です。(西側はそれほどひどくありません)
シンと静りかえった広大な泥沼が、たくさんの原形をとどめない家やひっくり返った車とともに延々と、何キロも続いているのです。
私が見た被災地の風景の中で、一番悲惨でした。
「ここでたくさんの人達が命を落としたのだ・・・」と思うと、妙な静けさはまぎれもなく鎮魂です。
私の子供のころの思い出もたくさんあります。
あの景色は、もうどこにもないのです。
この喪失感は、被災地につながる人にしかわかりません。
インターチェンジを降りて少しのところまで、津波の痕跡が見られました。
そこから実家まで10分はかかりませんでしたから、母も「すごく安全」というわけではなかったのだと思いました。
運転していた親戚も「危機一髪だった。危なかった。」と繰り返していました。
実際実家は、何枚か浴室のタイルが剥がれたくらいで特に損害はありません。
もちろん直後は、いろいろ物が落ちて(大きな家具は無事)、ライフラインも3、4日アウトでしたが、ご近所の方々に良くしてもらい過ごしてきた母。
その日の夜は、わざわざ遠方から来てくれた親戚二人と、存分に思い出話をしていました。
震災を耐えてきた日々の中で、久々に楽しいひと時だったと思います。
とても優しい二人で、本当に母の事を気遣ってくれてうれしくありがたかったです。
翌日も電車を乗り継ぎ、妹の家へ。
何年かぶりに会う親戚の方々も来て、皆お元気そうで安心しました。
再開した魚市場で仕入れたまぐろで「まぐろ丼」
これが・・・美味しかった!
そして・・・うれしかった!
少しづつ、少しづつ人々の暮らしは回復していっているのです。
海水、泥を一面に被った妹家の庭にも、たくさんの花が咲いていました

。
自然は怖い。恐ろしい。
でも、自然は美しいです。
「被災地でお金を使う!」というコンセプト(??)のもと、たくさんのおみやげ、その他を買って
仙台を後にしました。
こちらに戻って、いろんな人から「ご実家どうだった?お母さんは?妹さん達は?」と聞かれました。
それだけでもありがたいです。
日本中の人達に、まだまだまだまだ関心を持ち続けてほしいです。
あの光景を見たら、穏やかな普通の生活に戻るまでとても長い時間と、莫大なお金と、国中の協力が必要だということを実感します。
母も妹も、同じ場所に住み続けています。
とてもとても心配です。
けれど、私には自分にできることをするしかないです。
明日の事を思うのが、不安な時もあるけど、
明日がどうなってるのかを知る事ができるのは、実際明日を見る人だけだよね。
だったら、あんまり暗くならずに「この先の事見てみようか」・・・ってそんな気持ちです。

自宅に帰ってきたら、うちの庭は全くの「汚庭」
「被災した家より汚いわ!」
・・・本当に妹家はお庭もすっかりキレイ。
これはキレイ好きで、マメで、庭仕事、DIY的仕事が好き・・・という義弟の性格ですね。
世帯主の性格の差が、おウチの差。
本当に夫には、もうちょっと庭仕事をしてもらいたい。
帰宅してからのGWの残りは、ちょっとだけ庭の手入れをした私達でした。
それでもまだ草ぼーぼー。
(義弟や、やっぱり庭仕事好きな母が見たら、見かねてキレイにしてくれるかも)

いろんなものを見て、聞いて、感じて、・・・・それはこちらに戻ってからも、
あらためて思い返すことがあります。
毎日何度も電話をして(電話料金がスゴイことになってました!)だいたいの状況は把握してはいましたが・・・(電話中に余震…なんてこともしょっちゅうでした)
やっぱり家族の顔が見たかったです。
復旧した後何度も停電でストップした新幹線に乗る前は、ペットボトル飲料を多めに買い、お弁当もがっつりしたものを選び、雑誌も3冊買いました。(長時間止まった時の備えに)
でも特にトラブルなく予定通り仙台に到着。
電車を乗り継いで妹たちの待つ駅へ。
大きなリュックを背負い、ジャンパーにスニーカーという私の格好を見て
「やる気満々だねぇ」と言われましたが、もちろんそれなりに働く気で行ったのですよ!
地震の数日後に買った車で(一台は水没)妹たちの家に着くまでの道すがら、さまざまな状況が見られました。
多少ダメージがうかがえるものの、あまり被害を感じないエリア。
なんだかあまりのへんてこりんな感じ(バランスの崩れた普通じゃない感じ)に「あらー・・・・」としか言葉がでないエリア。
そんな光景がほんの数十メートル差で現れては消えて、また現れて・・・
車の進行に伴い繰り広げられるけれど、それは土地の高低差とか波の到達の具合とか・・・
もう「ここはこんなんなのに、ここはこんなだわ・・・」っていう被害の差の理由は、
人知を超えた「神のみぞ知る」という感じでした。
第一、海から徒歩2、3分の妹の家が無事なのですから。(一階は床上浸水)
3週間近くの避難所暮らしの間、せっせと自宅の片づけに通っていた妹達。
家中を覆い尽くした泥を掻き出して冗談みたいに重い畳(←これがすごくやっかいらしい)を取り除き、床板をはがし乾燥させ、石灰を撒き。
床板と畳を張替え、壁紙も新しくしていました。
まるで普通にリフォームした家のよう。キレイに片付いていました。
周りの光景は「ザ・被災地」なのですが、妹の家を含め、ところどころに外側からはまったく被害を感じさせない家もあるのです。
(もちろん、もう住めないだろうな・・・というお宅も多数です)
「いったい私達は何をすれば・・・?」という感じでしたが、まだ泥を掻き出してない庭の片づけや、サッシ、網戸、縁側の掃除をしました。
上下作業衣に着替えて、やる気十分の夫、スコップで泥を掻き出す作業にすぐハァ、ハァ言ってました。
背中や腰にがっつりきたみたいです。
泥やゴミを捨てに行く場所は海辺の元、児童公園。
ありとあらゆるゴミ、ガレキで小山のようになっています。
夕暮れの美しい静かな海の光景を憶えています。
毎年夏祭りを開いていたところです。
小学生だった甥っ子が「ミッキーマウスのダンス」を踊ったことを思い出し、胸がいっぱいになりました。
ある程度終わった後、偶然、その日神奈川から車で手伝いに来てくれていた母方の親戚と一緒に、仙台南部にある実家に向かいました。
その時通った「仙台東部道路」が地震の後、注目を集めています。
この有料道路は、遮るもののない海抜約2メートルの仙台平野を、海から約3キロメートル離れた地点で南北に通っています。
これが3月11日、防波堤となって多くの人の命を救ったのです。
たくさんの人がこの高さ5~8メートルの道路によじ登って避難しました。
実際、この道路の東側(海側)は惨状です。(西側はそれほどひどくありません)
シンと静りかえった広大な泥沼が、たくさんの原形をとどめない家やひっくり返った車とともに延々と、何キロも続いているのです。
私が見た被災地の風景の中で、一番悲惨でした。
「ここでたくさんの人達が命を落としたのだ・・・」と思うと、妙な静けさはまぎれもなく鎮魂です。
私の子供のころの思い出もたくさんあります。
あの景色は、もうどこにもないのです。
この喪失感は、被災地につながる人にしかわかりません。
インターチェンジを降りて少しのところまで、津波の痕跡が見られました。
そこから実家まで10分はかかりませんでしたから、母も「すごく安全」というわけではなかったのだと思いました。
運転していた親戚も「危機一髪だった。危なかった。」と繰り返していました。
実際実家は、何枚か浴室のタイルが剥がれたくらいで特に損害はありません。
もちろん直後は、いろいろ物が落ちて(大きな家具は無事)、ライフラインも3、4日アウトでしたが、ご近所の方々に良くしてもらい過ごしてきた母。
その日の夜は、わざわざ遠方から来てくれた親戚二人と、存分に思い出話をしていました。
震災を耐えてきた日々の中で、久々に楽しいひと時だったと思います。
とても優しい二人で、本当に母の事を気遣ってくれてうれしくありがたかったです。
翌日も電車を乗り継ぎ、妹の家へ。
何年かぶりに会う親戚の方々も来て、皆お元気そうで安心しました。
再開した魚市場で仕入れたまぐろで「まぐろ丼」
これが・・・美味しかった!
そして・・・うれしかった!
少しづつ、少しづつ人々の暮らしは回復していっているのです。
海水、泥を一面に被った妹家の庭にも、たくさんの花が咲いていました
自然は怖い。恐ろしい。
でも、自然は美しいです。
「被災地でお金を使う!」というコンセプト(??)のもと、たくさんのおみやげ、その他を買って
仙台を後にしました。
こちらに戻って、いろんな人から「ご実家どうだった?お母さんは?妹さん達は?」と聞かれました。
それだけでもありがたいです。
日本中の人達に、まだまだまだまだ関心を持ち続けてほしいです。
あの光景を見たら、穏やかな普通の生活に戻るまでとても長い時間と、莫大なお金と、国中の協力が必要だということを実感します。
母も妹も、同じ場所に住み続けています。
とてもとても心配です。
けれど、私には自分にできることをするしかないです。
明日の事を思うのが、不安な時もあるけど、
明日がどうなってるのかを知る事ができるのは、実際明日を見る人だけだよね。
だったら、あんまり暗くならずに「この先の事見てみようか」・・・ってそんな気持ちです。

自宅に帰ってきたら、うちの庭は全くの「汚庭」
「被災した家より汚いわ!」
これはキレイ好きで、マメで、庭仕事、DIY的仕事が好き・・・という義弟の性格ですね。
世帯主の性格の差が、おウチの差。
本当に夫には、もうちょっと庭仕事をしてもらいたい。
帰宅してからのGWの残りは、ちょっとだけ庭の手入れをした私達でした。
それでもまだ草ぼーぼー。
(義弟や、やっぱり庭仕事好きな母が見たら、見かねてキレイにしてくれるかも)
by nanakokashiwa | 2011-05-11 18:46 | 日々の出来事

